113体の犬骨が語る、古代ローマの小さな犬たち——ポンペイの地下から伝わるもの

「ポンペイの遺跡に、イタリアングレーハウンドがいた」
こんな話を聞いたことがある方は、多いのではないでしょうか。
鎖につながれた犬の石膏鋳型、「Cave Canem(犬に注意)」のモザイク、
そしてローマ貴族の膝の上でまどろむ細い脚の小さな犬
——そういったイメージが重なって、「イタグレの祖先は2000年前のローマに確かにいた」という物語が、
いつの間にかできあがっています。
今回は、その話の周りにある遺物や文献を一緒にたどりながら、
ポンペイという場所が2000年の時間を越えて伝えてくれているものを、あらためて感じてみたいと思います。
灰の中で眠り続けた犬たち——石膏鋳型という奇跡
紀元79年の秋、ヴェスヴィオ山が噴火し、ポンペイの街は一夜にして厚い火山灰の下に埋まりました。
その灰の中に、犬がいました。逃げ場を失い、そのまま命を落とした犬の遺体が、長い時間をかけて分解され、灰の中に「型」を残していったのです。
19世紀の発掘でその空洞が発見され、石膏を流し込むことで犬の姿が復元されました。
それが「ポンペイの犬」の石膏鋳型です。
この鋳型の中に、鎖でつながれていた犬がいます。広く「House of Orpheus(オルフェウスの家)」から出土したと伝えられているこの鋳型が、細身のサイトハウンド型の姿をしていたという話が、犬好きの間ではよく語られています。「ほら、イタグレじゃないか」
——そういう声も聞こえてきます。
これが事実かどうか、学術的には慎重に確かめる必要があるものの、
ポンペイにそういった体型の犬がいたという考古学的な証拠は、骨の形として別の場所できちんと残っています。
「鎖の犬がイタグレ型だった」というのが後世の伝言なのか実際の観察なのかはともかく、
当時のポンペイにその話が生まれる素地があったことは、確かなのです。
113体の骨が証明したこと——Zedda 論文という確かな根拠
2006年、学術誌『Anatomia Histologia Embryologia』に、小さくて重要な論文が発表されました。
サルデーニャ大学を中心とする研究チームが、ポンペイから出土した犬の骨と歯、
計113点を対象に、形態学的・計測学的な分析を行った研究です(PMID: 16968252)。
113体という数は、なかなかの規模です。考古学的な調査にかける手間と情熱を感じます。
その結果が興味深い。ポンペイの犬たちは大きく「小型」と「大型」の2グループに分かれ、
小型犬の中には長頭型(dolichocephalic)と呼ばれる、
前後に細長い頭骨を持つ個体が含まれていたのです。
「長頭型」という特徴は、グレーハウンドやサルーキといったサイトハウンド系の犬種によく見られる形態です。現代のイタリアングレーハウンドも、この長頭型に属します。
論文は、これらの小型犬を機能的な分類として「ラップドッグ(lap dog)」と呼びました。
ローマ時代の農業書に記されていた狩猟犬・番犬・牧羊犬のいずれにも当てはまらない小ささと体型だからこそ、
人の膝の上で愛でられる犬だったのだろう——という推論です。
2020年の発掘——20cmの骨が語ること
近年の発掘も、この話に厚みを加えてくれました。
2020年12月、ポンペイの「テルモポリウム(Thermopolium)」跡
——簡単に言えば、ローマ時代のファストフード店のような軽食屋の遺構から、
成犬の完全な骨格が発見されました。肩高はわずか20〜25cmです。
現代のイタリアングレーハウンドのFCI基準が33〜38cmですから、それよりさらに小さい。
子犬ではなく、成犬でこの大きさです。
考古学者たちは、この発見を「ローマ時代における選択的繁殖の高度さを示す証拠」と評しました。
「選択的繁殖」というのは、特定の体型・形質を持つ個体を選んで掛け合わせていくという行為です。
つまり、2000年前のローマ人も、意図をもって「小さな犬」を作り出していたかもしれない、ということです。
テルモポリウムの壁には、首輪をつけリードで繋がれた犬のフレスコ画まで描かれていたといいます。
食事をしながら、傍らに犬がいる。そんな日常がポンペイにはあったのだと思うと、
2000年という時間が急に縮まる気がします。
Cave Canemの扉を持つ街で
「Cave Canem(カウェ・カネム)」——ラテン語で「犬に注意」の意味です。
ポンペイの「悲劇詩人の家(House of the Tragic Poet)」の玄関前室に、
鎖につながれた犬と「CAVE CANEM」の銘文が描かれたモザイクが実在しました。
現在はナポリ国立考古学博物館に収蔵されています。
これは番犬の証拠です。
家を守る犬がいた
——それ自体がポンペイの日常を映しています。
そして同じ時代に、1世紀の作家ペトロニウスが書いた風刺小説『サテュリコン』にも、富豪の屋敷の玄関に「犬に注意」の壁画があったという記述が残っています。
当時のローマで、犬との暮らしがそれだけ当たり前だったということでしょう。
番犬がいる一方で、膝の上の犬もいた。大きな犬も、小さな犬も、街の中に当然のように混在していたのだろうと思います。
マルティアリスが詠んだ「イッサ」——2000年前の愛犬詩
ここで、ひとりの詩人の話をさせてください。
1世紀のローマ詩人マルティアリス(Martial, c. 38–104 AD)は、
「イッサ(Issa)」という名の小型犬をテーマにした詩を残しています(Epigrams, Book I, 109)。
Issa est passere nequior Catulli,
Issa est purior osculo columbae
(「イッサはカトゥルスのスズメより腕白で、鳩のキスより清らかだ」)
詩の中でイッサは、賢く、清潔で、飼い主への愛情が深い犬として描かれています。
泣くときも声を出さず、夜を共にするときも粗相をしないと詠われている。
愛おしさのあまり、飼い主のプブリウスは犬の肖像画を依頼させたとも伝えられています。
2000年前にも、愛犬の絵を残したくなる人がいたのです。
イッサがどんな犬種だったかは、詩の中には書かれていません。メリタ島(現在のマルタ)産の小型犬「メリタエアン犬」ではないかという説がありますが、確かなことはわかっていません。
ただ、アリストテレスの著作にまで記録が残るメリタエアン犬が、当時のローマ貴族の間で広く愛されていたことは事実です。
シバリスの富裕層の女性たちが「犬を膝に乗せたまま体操施設まで連れて行った」という話も伝わっていて、当時の小型犬への愛着の深さが伝わってきます。
バチカン美術館の大理石像
ローマから少し時代を下った紀元2世紀、大理石で刻まれたサイトハウンドの像があります。
1774年にローマ郊外のラヌウィオで発見され、現在バチカン美術館に収蔵されているこの像について、「おそらくイタリアングレーハウンド、あるいはその前身種を表していると考えられる」という説明が伝えられています。
この像が、2世紀のローマにサイトハウンドと呼べる細い体型の犬がいたことを、石の重みで物語っていることは確かです。
ローマという広大な帝国の中では、イタリア半島だけでなく、ガリア(現在のフランス・ベルギー周辺)のサイトハウンドなど、
さまざまな土地の犬たちが行き交っていました。「古代ローマのサイトハウンド」は、ひとつの起源から来た一種類の犬ではなく、
もっと多様な姿をしていたのかもしれません。それはそれで、ローマという帝国の広さをそのまま体現しているようで、面白い話だと思います。
2000年前と今を繋ぐもの
整理してみると、こういうことが言えます。
- ポンペイには、紀元79年の噴火の中で命を落とした犬の石膏鋳型が実在する
- 113体の犬骨の分析により、長頭型の小型犬がポンペイにいたことが骨として証明されている
- 2020年の発掘では、肩高わずか20〜25cmの成犬の骨格が出土し、ローマ人が犬を選択的に繁殖させていた証拠とされている
- ローマ文学には、小さな犬を深く愛した人々の記録が残っている
- バチカン美術館には、2世紀のサイトハウンドとされる大理石像がある
「ポンペイにいた小型の長頭型の犬が、現代のイタグレに直接つながっているか」
——これはまだ、はっきりとはわかりません。古代DNA研究が進めば、いつか答えが出るかもしれない。
でも、2000年前のポンペイに、膝に乗せられるほど小さな犬がいたことは、骨が証明しています。
詩人が愛する犬の肖像画を残させるほどの感情が当時のローマにあったことも、文字が証明しています。
そして石膏の鋳型は、火山の灰の中で息を引き取ったひとりの犬を、今も朽ちることなく伝えています。
犬と人の関係は、形を変えながら2000年以上続いてきた。
わたしがブリーダーとして日々感じる「この子たちと一緒に生きている」という感覚が、まったく異なる時代のローマにも確かにあった
——そのことが、考古学の論文の一行や、詩の断片から静かに伝わってくるのです。
「2000年前のローマでも、犬を膝に乗せていた人がいた」
——それだけで、何か温かい気持ちになります。
参考文献
- Zedda M, Manca P, Chisu V, Gadau S, Lepore G, Genovese A, Farina V. “Ancient pompeian dogs–morphological and morphometric evidence for different canine populations.” Anatomia Histologia Embryologia, 2006 Oct; 35(5):290-4. PMID: 16968252 https://pubmed.ncbi.nlm.nih.gov/16968252/(2006年)
- Petronius, Satyricon, Chapter 29(英訳:Project Gutenberg収録)https://www.gutenberg.org/files/5225/5225-h/5225-h.htm
- Martial, Epigrams, Book I, Epigram 109(ラテン語原文:The Latin Library)https://www.thelatinlibrary.com/martial/mart1.shtml
- Wikipedia「Pompeii」https://en.wikipedia.org/wiki/Pompeii
- Wikipedia「Italian Greyhound」https://en.wikipedia.org/wiki/Italian_Greyhound
- Wikipedia「House of the Tragic Poet」https://en.wikipedia.org/wiki/House_of_the_Tragic_Poet
- Wikipedia「Maltese dog」https://en.wikipedia.org/wiki/Maltese_dog